2013年 2月の記事一覧

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13年02月22日 01時36分05秒
Posted by: kawasaki
オカルト好きの私もこの件について、オカルト的と言うか、自然に偶然に、情報を手に入れることが出来ました。色々なオカルト関係の書物を読んでいると、特別に調べなくても、いつか、自然に又、偶然に知ることが出来るものです。この情報は結構信頼があるところから、得ており、私も結構ずっと、信じています。ツングースカの爆発は、簡単に言うと、宇宙人の乗った宇宙船が地球にやって来たのですが、宇宙船が何らかの原因で故障してしまいました。そのために、地球の磁場から脱出できなくなって宇宙に戻れなくなったのがまず第一の悲劇的な原因です。そして悪いことに宇宙船の中で疫病が蔓延し出したそうです。その為どうにもならなくなり、核爆弾を作って、宇宙船ごと一瞬に爆発して、跡形もなく消滅することになったのだそうです。それで、人間に害を及ぼすことのないシベリアのツングースカ川上空を選び、ここににやってきたのです。そして、1908年6月30日午前7時2分(現地時間)に10キロ(たぶん記憶なし)上空で核爆弾(原子爆弾かどうかは記憶が曖昧で分からない)を爆発させました。

私が本を読んだ記憶はこんなものです。たぶん捜せば本が出てくると思います。でも結構たくさんありますから、捜すのは大変です。とりあえず、ロシアに隕石が落ちたばっかりですので、この機会に、たぶん、20年以上も前に知った、私が記憶してることを書かせていただきました。ロシアの作家もこの件を小説にしていますが、中身がかなり違いますね。
13年02月16日 01時01分08秒
Posted by: kawasaki
この話は平成19年3月に起こりました。私の知人のFおばあさんと、その古くからの知人のYさんとの話です。私はFおばあさんを一ヶ月に1度、豊橋の病院へ連れて行きます。又、元気だった時には、豊橋へ買い物にも連れて行きました。その時は豊橋市内にあるYさんの自宅の前を通ることがあり、Yさんの自宅は自然といつの間にか知るようになりました。Yさんは長男夫婦と一緒に住んでおり、奥さんはずいぶん前に亡くなったそうです。Yさんは昔Fさんの上司だったとのことでした。昔はよく会っていたそうですが、それがいつの間にか疎遠になったと言っていました。それでも時々電話がくることがあったようでした。平成18年の9月(たぶん)頃久しぶりに、Yさんから電話がありました。「病院に入院することになったから」と、言うぐらいの短い話だったそうでした。その後は電話は一度もありませんでした。3月のある日、司法書士会の豊橋支部のたぶん嘱託関係だと思いますが、3月23日の金曜日(たぶんこの日に間違いない)に豊橋のウエステージ豊橋で懇親会付きの集会があり出席が決まっていました。私も酒を飲むかもしれないと思い、先のことを考え、飲んだら少し歩いて酔いを醒ませばいいと思い、なぜか、スーパー・ヤマナカ汐田フランテ館の駐車場に車を置いて、ウエステージ豊橋まで歩いて行く事にしました。途中で何回か、ウエステージ豊橋の駐車場に入れとけばよかったなと思いましたが、とうとう歩道橋のところまで来てしまいました。ここまでくればすぐ近くだからと思い、歩道橋を渡りました。ホテルユアーズの道を行こうと思っていましたが、気がつくと、歩道橋は大通りの方に自然に降りてるようになっており、なぜかユアーズの前の道路を通らない方向に歩いていることに気がつきました。そしてYさんの自宅の前を歩いて行く事にも気がつきました。ああ、Yさんの自宅だと思いました。いつもはYさんの自宅の前を車で走っており、今まで一度も自宅の前の歩道を歩いたことはありませんでした。まだ明るかったので、自宅の玄関もはっきり見えました。玄関のドアを見てびっくりしました。ドアに紙がはってあり、「忌中」と書いてありました。Yさんとは私は一度も会ったことはありませんが、Fさんに自分が亡くなったことを伝えて欲しくて、私をここまで、連れてきたのだと思うのは、思い過ごしでしょうか。

ウエステージ豊橋の駐車場に入れてしまえばこのようなことが起こらなかったと思います。ヤマナカ汐田フランテ館に車を置いたのは初めてです。いずれにしろ、不思議な事が起こるのは、私もかなりの霊媒体質かも知れません。皆さんも不思議体験ありましたらぜひ読ませてください。以上で不思議体験シリーズは終わりです。


豊橋市内の中央葬祭さんに電話で聞いたところ、通夜と葬儀が終われば忌中の紙をはがしますとのことでした。Yさんの死亡日からすると、私が見たのは23日に間違いないと思います。事件簿で登記申請がその日に出ているかどうか調べましたが、23日付けの申請は、ありませんでした。申請が無くてもこの日は必ず豊橋へ行っています。
13年02月12日 15時44分09秒
Posted by: kawasaki
20年ぐらい前の話です。ソフトボールの練習試合での出来事です。ライトを守っていた時の話です。いつもはキャッチャーをやっていますが、今思い出してもなぜライトで守備に就いていたのかはもう思い出せません。単にライトの守備に回されただけかもしれません、とにかくライトを守っていました。相手のチームはたぶん調査士会のチームだったと思います。当時はよく練習試合をやっていましたからね。ツーアウトだったと思います。バッターが打ちました。玉が飛んでいった方向はライトとセンターの中間ぐらいだったかもしれません。私的にはライトの守備範囲だったと思っています。そのフライの玉を当然のように捕りに行きました。そういう時は普通無心で玉を追っかけますよね、しかし、その時は違いました。私が自問自答をしていたのか、それとものんびり考え事でもしていたのか分かりませんが、今考えると、どう考えても、女性の声が頭の中で聞こえてきたとしか考えられないのです。いや女性のような声だったと思います。その声は「無理して捕らないほうがいいよ、無理して捕らないほうがいいよ」とやさしく諭すように聞こえてきました。こんなことを思って玉を捕りに行くことは過去絶対無いことであり、どう考えても自分で自問自答しているようなことも絶対無いと思います。つまり第三者が頭の中で私に話しかけているとしか思えないのです。そして又私もなぜか分かりませんが、それに答えているのです。「そうだね、遊びだからね、それじゃあ玉が落ちてから捕るようにするか、玉が落ちたところから2メートルぐらいの処で拾って捕ろうか」と答えているのです。そしてこの辺が2メートルだよなと思って走っているのです。その時はフライで捕ったほうが簡単だけどな、とも思いながら走っているのですよ。自分でも後から考えても自分は聞こえてきた言葉に対して、素直だったなと思いました。この後どんな事が起こったと思いますか?皆さん考えてください。
少し空間を空けておきますので答えが見えないようにして考えてください。






 
答えは
センターが凄い勢いでダダダダダーバシッと音を立ててフライを捕りました。私はセンターの2メートル後ろを駆け抜けていきました。つまり右と左に駆け抜けていきぶつからずにすんだのでした。ぶつかっていれば大怪我をしていたかもしれません。スリーアウトチエンジでベンチへ帰ってきましたら、I先生が「S先生と川崎先生がぶつかるかと思った」と言いました。その時はなんとも思わなかったのですが、後から考えると「無理して捕らないほうがいいよ、無理して捕らないほうがいいよ」と聞こえてきたのはどう考えても私を守ってくれた天使?、守護霊?が話しかけてきたとしかいいようがありません。これがソフトボールの試合中に起こった不思議体験です。


(守備について話しますが、守備もそんなに下手ではないです、むしろ上手いほうだと思います。過去の愛知県司法書士会主催の試合で豊橋支部が準優勝した時レフトの守りでファインプレイを連発して敢闘賞を貰いました)


I先生(女性)は平成4年10月26日が入会年月日ですので、この事件は平成5年か6年以後の話だと思います。本人にこのことを聞きましたら、当然ですが、憶えてないそうです。当たり前ですよね、何も事故が起こらなかったのですからね。
頭の中でささやいてきた女性は40代から50代の声でした。私の母の声ではなかったです。男の声だと相手チームの中の選手かも知れず、素直に行動できないと思います。やはり女性の心配した声で話しかけてくる方が素直に聞けます。色々考えますと、やはり女性の声で、心配した声で話しかけてきたのは、一番素直な行動ができると思いますので、最良の方法をあの世の人が取ったのは間違いありません。事故になりそうな色々なことまで考えて話かけてきており、本当に感謝します。しかし、どのようなレベルのあの世の方が、声をかけて来たか知りたいです。私は個人的には40代前半の美しい天使の方だと思っています。
13年02月08日 12時43分17秒
Posted by: kawasaki
 この話は昭和61年3月に起こりました。その日は朝から雨が降っていました。6時頃目が覚めたかもしれません。たぶん20分の瞑想をしたと思います。瞑想終了後と同時にベッドから降りました。2階に寝室がありましたのでそのまま2階から降りてトイレに行きました。朝食を取った後、またトイレへ行ったと思います。それからトイレを出て,電気カミソリで鏡に向かって髭をそったと思います。当時は今のように充電式ではありませんので、コンセントのあるトイレの前の鏡を見ながら,髭をそりました。髭をそりながら、なんでこんなに急がされるのかと思いました。普通なら瞑想後、ベッドのふとんの中でボーとしていてもおかしくありませんが、瞑想後、時間は充分あるのに、すぐにベッドから降りるのがおかしいなと思いました。とにかく急がされるのです。まるですぐそばで、早く早くと言われているようでした。自分でも分かります。最後に洋服ダンスの鏡を見て少し落ち着いた後、初めて気がつきました。私のすぐそばで、早く早くと聞こえませんが言っている人が誰だかが分かりました。K先生でした。実を言うと当時神智学と言う名の関係の本(見えざる助力者 発行所 竜王文庫)を読んでおり、このようにあの世の人が早く早くと急がせることが虫の知らせとか言う項目にぴったりだったのでK先生が今、自宅に来ているのがわかったのです。なぜK先生だと言うと、1週間前に次のような事がありました、当時は私の事務所が旧渥美町役場のすぐそばにありました。事務所のそばに豊橋市に本社のある金融業を営む大和商事(株)の渥美支店があり、時々、そこに行ってはお茶を飲んだりしていました。ちょうど1週間前に、そこの会社の事務員である河合さんと話しをしたことを思い出しました。話しの中身はこうです。私が河合さんに、「K先生がまた病院に入院したと聞いたけど、もしかしたら、K先生かなり悪いのではないかな、1週間後に亡くなるかも知れないよ、河合さん」すると、河合さんは笑いながら「そんなことないわよ」と否定しました。こんな会話を思い出しましたので、K先生が亡くなられて訪ねてきたのだと直感しました。鏡の前でふりむいて見えないK先生に言いました。「K先生亡くなられたのですね。姿は見えませんが、ここにいることが分かります。葬儀はしっかりと手伝いますから大丈夫です」と、それから自宅から車で事務所に向かいました。事務所に着いて寒いのでストーブに火を点け、手をかざして暖まっていましたら、同じ組の林さんが入ってきました。林さんは入ってくるなり、「川崎さん今日は(事務所に来るのが)早いね、おい、川崎さん、たいへんなことになったよ」と言いましたので、私が「K先生が亡くなったんでしょ」と言いましたら、「なんで、あんた知っているの」と林さんがびっくりしながら言いましたので、私も「朝K先生が自宅に来たから」と言いました。林さんは「えー」と言って又、びっくりした声を上げました。「川崎さん、組の人と、みんなで今からK先生のところへ行くからあんたも来てくれないか」と林さんが言いましたので、私も事務所を出て隣のK先生の自宅へ行きました。
次になぜ、K先生が私の所へ来てくださったのか、その理由をお話しします。ここで葬儀のことを話しておきます。K先生の自宅と私の事務所は隣にあり、同じ組ですので、同じ組の人が死ぬと葬儀のために事務所を1日休んで、葬儀を手伝います。葬儀の手伝いはまず、同じ組の杉浦自転車屋さんから軽トラックを借りてきて、栖了院の近くにある倉庫へ、自治会で作った葬儀用の祭壇などの入った箱を取りに行き、それをそれぞれのお寺の本堂へ運び込み置いておきます。その後それを葬儀屋さんが祭壇に飾ります。墓石を動かしたり、墓石の上に乗ったりしたこともあります。その様な仕事とか、本堂で葬儀が行われている時に、葬儀に来ている親戚の方の食事用の長机を出して準備をしたり、机の上に箸を並べたり茶碗を並べたり、座布団を並べたりします。私も注意深い生真面目な男ですので、机が曲がっていたり、座布団があっちを向いたりしてないようにまっすぐにしたりと、色々細かいとこに気を使ってこまめにやります。気がつくと、誰かに見られているように思い、顔を上げるとK先生が私を見てにこにこしているのです。こんなことが何度もありました。今でもにこにこ顔の先生を思い出します。K先生はいつも喪服を着て、お寺の葬儀の受付にいてくださるのでとても助かります。受付にいて人が途切れた時に何度も私の働き振りを見ており、その働き振りが気に入って、きっと私の所へ朝来て下さったのだと思います。本当にとっても光栄なことです。先生はきっと私が葬儀をしっかりやってくれるだろうと思って来てくださったのだと思います。しかし私の自宅は知らないのにあの世に行けばどこへでも簡単に行けるのですね。人間は死んだらおしまいではないですよ。こうして先生があの世で元気に行動出来て、生きているように振舞うことが出来ることが分かり、この話を聞いた家族の方は幸せです。
以上が、亡くなられた方が朝、私の自宅に訪ねて来られた話です。


 市役所にお孫さんがおり、何年に亡くなったか聞きましたところ、昭和61年だそうでした。私は平成の話かと思いましたが、記憶は曖昧ですね。この話はお孫さんは初耳だったそうです。奥さんはこの話を聞きに来られたことがありました。お孫さんにプリントした紙を奥さんに見せてあげてと言いましたら、2年前に亡くなっていました。きっと、あの世で先生に会って、この話が本当かどうか聞いているかも知れませんね。
 雨の朝、私の事務所に来られた林さんも5年ほど前に、既に亡くなっていました。


 神智学については、昭和59年頃(本の発行年月日から推測)から本を買い集めておりました。C・W・リードビーター著の本が素晴らしく良く、この本を読んだおかげでこのブログが書けました。この本が無かったら、K先生が自宅に来られたことは、分からなかったかもしれません。本が現実に役立って良かったです。K先生にも感謝します。
13年02月06日 01時01分49秒
Posted by: kawasaki
もう30年以上前(昭和59年頃だと思う女性の干支で決めました)の話になります。名古屋に用事で行くことになり、豊橋駅から名鉄電車に乗りました。かなり人が乗り込んでおり、相席になりました。若い女性の隣が空いていましたので、ここ空いていますかと尋ねて座ることになりました。
隣の女性はまだ若い優しそうな女性でした。豊橋の方ですか?と聞きましたら、新城(たぶん記憶があいまい)から飯田線で来て、乗り換えて名古屋にいくと言うことでした。私も女性が喜びそうな話をしながら名鉄金山橋までの45分間を電車に揺られながら行きました。でも若い女性を飽きさせずに話をするのはたいへんです。干支の話をしたり、センスの良い服装の話をしたりした記憶があります。名古屋へは何しに行くのですか?と、聞いたところ習い事に行きますという返事でした。それではその習い事をテレパシーで当てましょうと言ったところ、彼女も素直にうんとうなずきながら、真剣なまなざしで私を見つめました。私も一瞬豊橋で習い事が出来無いから名古屋まで行く習い事とは一体なんだろうと思いました。全く分かりませんでした。「それでは、私がしばらくの間リラックスします、それでハイと言ったら、習い事をテレパシーで送ってください」と言いました。彼女は私の顔をじっと見つめて真剣そのものでした。私は瞑想状態に入りました。しばらくしてから、ハイと言いました。すると彼女はテレパシーを送ってきました。まるで隣で私に向かって話しかけるような言葉のアクセントで、頭の中にしっかりと、そしてはっきりとした言葉が飛び込んできました。その言葉は「英語」とはっきりと聞こえました。思わず私も「分かった、分かった、分かった」と何回も言いました。そして「英語かー」と言いました。それを聞いた彼女もびっくりしました。私の顔を唖然とした顔をして見ました。私はその後も「分かった、分かった、分かった」と繰り返しました。その後、私が「英語でしょう」ともう一度確認する様に言ったところ。彼女は大きくうなずきました。私もびっくりしましたが、彼女もびっくりしたと思います。当時はストーカーと言う言葉も無い時代ですから、彼女は私が後をつけて来たかと思ったかもしれません。しばらくの間彼女は私を、一言も言わずじっと見つめていました。もしここに出てくる女性の方がこのブログを読まれましたらぜひ連絡ください。お願いします。


「テレパシー成功の原因について」
送り手の女性が凄く素直でテレパシーに興味を抱いたのがよかったと思います。また、テレパシーに対して、興味と好奇心のようなものが、真剣に女性を本気にさせたのだと思います。貴方も頭の中で「英語」と声を出さずに、相手に向かって頭の中で叫んでみて下さい。
頭の中で叫んだように聞こえた「英語」が本当に私の頭の中に聞こえた「英語」の発音のテレパシーそのものなのです。受け手の私は上手くいかなくても良く、聞こえなければ、やっぱりだめでしたと言えばよく、結構,お気楽だったように憶えています。ただし私は超越瞑想者ですので、多少の超能力は瞑想で開発されていたかも知れません。
13年02月04日 11時55分47秒
Posted by: kawasaki
昭和の時代の話です。正確には判りません。超越瞑想を始める前かも知れません。30年以上前の話だと思います。前の事務所の時代の話です。事務所の前は昔バイパスが出来る前、国道259号線でした。その当時すでにバイパスが有ったかどうかはあまり覚えていません。今巻尺で道路の幅を計ると6・5メートルでした。事務所は十字路の北側の角にありました。いつも事務所からその国道を横切った処の狭い路地に駐車していました。その路地の道路には今も昔も駐車禁止の標識はありません。渥美町(現田原市)は今も昔もそんなに変わっていません。近くにはガソリンスタンドがあったその頃だと思います。昭和の終わりのガソリンスタンドを取り壊してスーパーを建てる前の話しです。朝自宅から出て来てその路地に駐車しました。仕事などの用事でその路地の車を動かすため車に乗る時は必ず道路を横切りました。当時私は元気よく道路を走って横断したものです。道路幅は6・5メートルと短い道路ですが、豊橋鉄道のバス路線があり、豊鉄伊良湖本線のバスが昔も、今も、通行しており通行量は当時も今も、結構あります。道路を横断する時は必ず左右を確認しなければ危ない道路だったと思います。その日は晴れていました。風邪を引いていたのを覚えています。きっと風邪で、ぼーとしていたのでしょう。なにげなく国道を横断しようと立っていました。右から車が通りすぎました。さあ勢いよく走ろうとする時でした。突然頭にガーンとゆう衝撃がありました。目がさめるほどの衝撃があり、当然走るのを止めざるを得ませんでした。すると、今目の前を左へ行った車の陰になって見えなかった向こうから、突然左から右へ車が走り抜けていきました。危うく車にはねられるところでした。テレビなどでよく話を聞くところによる、くも幕下出血のようなバットで頭を殴られたような感じだったと思います。その様な衝撃が頭にあったおかげで走るのをやめて、事故にあわずに助かりました。後から考えると私の守護霊(たぶん)が私の頭をたたいたのだと思います。あの衝撃がなければ自動車事故に遭い、今頃は仕事ができなかったかも知れません。きっと守護霊は「ばかもん」と言ってたたいたのだと思います。これ以後は走って横断するのをやめました。私を守ってくれる守護霊がいることは、うれしいやら頼もしいやら、守護霊様に感謝です。この時から頭を殴られないように注意しています。
13年02月01日 00時53分21秒
Posted by: kawasaki
昭和56年頃、私は超越瞑想を習いました。覚えたばっかりの頃の話です。始めて1週間頃の夏の夜です。風呂から出てとても気持ちのいい夜でした。2階に行き柔らかいソファーで瞑想したくなりました。マントラに集中しないでいろいろなことが自然に浮かんでくるようにマントラも自然に浮かんできます。私たちはマントラに集中しません。マントラが頭の中を自然に流れます。そして20分間の瞑想の始まりです。柔らかいソファーに足を伸ばした状態で、体のことを忘れるような楽な状態で瞑想に入りました。20分ぐらいたった頃でした。体の表面と言うか皮膚がさわさわさわさわと言う感じで何かが起こっているなという感じがしました。そのうち皮膚の感覚がなくなりました。透明人間になったのです。恐る恐る目をゆっくりと開けました。透明人間になっているかと思えば体が見えました。感覚だけが無くなっていたのです。しばらくの間感覚が戻ってくると瞑想をはじめて感覚を消して透明人間になり、透明人間になると又感覚を戻したりして楽しんでいました。その後1時間ぐらいは瞑想をしていたと思います。これが超越瞑想を始めて1週間頃に起こった体験です。尚、超越瞑想は宗教ではありません。瞑想は超能力と関係が有り、オカルト好きな私にぴったりだったので始めました。昔は3万円ぐらいで教えてくれましたが、今は結構高いと思います。インド5000年の命脈を保っているそうです。そのため昨日や今日できた瞑想法とは違いますので、超越瞑想(英語の呼び名から略してTMと言います)はお勧めです。まだ瞑想中には色々なことが起こりますが、あまり言わない方が瞑想を始める方の先入観になりよくありませんので超越瞑想に関する奇跡体験はこれだけにします。


超越瞑想は意味の無いマントラ(言葉)を唱えます。マントラとはインド語(ヒンズー語たぶん)で言葉と言う意味があります。マンダラとは絵のことを言います。

奇跡体験シリーズはいつ頃起こったかは正確には判らない事もあり多少の時期のずれは有るかと思います。私の記憶もかなり曖昧ですのでその点はよろしくお願いします。
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