2014年 7月の記事一覧

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14年07月28日 08時00分00秒
Posted by: kawasaki
 このブログを書くために太平洋で離岸流の実験をしました。勿論実験は嘘ですが、じつは実体験をしていました。私は偶然にも、海でも流されてしまいました。しかし、まさかこのようなブログを書くために、貴重なあぶない経験をさせられたわけではないと思います。しかし、恥ずかしながら太平洋でも流されて怖い思いをしました。それではその怖い思い出をお話しします。最初の事務所の時代の頃の話です。昭和48年頃だったと思います。最初の事務所は渥美半島の伊良湖岬から約6キロ東の太平洋側にある堀切町にありました。現在の国道42号線沿いです。当時はまだ県道でした。色々事情がありまして、渥美半島の西にあった渥美出張所の近くには、まだ事務所を出す事ができませんでした。しかしそのおかげで、表浜沿いの日出町、伊良湖町、堀切町、小塩津町、和地町の方々が多く来られました。特に堀切町の小久保八代士さんにはよくお客さんを紹介していただきました。今は夫婦とも故人になってしまいました。最初から町中へ出なかったのは、逆によかったかもしれません。町の中心へ事務所を出すなら、味方を少しでも引き連れて出るのが一番良い方法だと思います。堀切町の事務所は海岸道路沿いにありました。周辺は農家ばっかりのまったくの田舎にありましたので、呑気なものでした。事務所の前が太平洋なので、泳ぐ事もできました。夏のある日の夕方ごろだったと思います。事務所の所有者の方の子供を連れて泳ぎに行ことになりました。中学生の男の子とその友達を連れ事務所の西840メートルの小塩津町の海岸まで車で行き泳ぐ事にしました。子供たちは付いてきただけで泳ぎませんでした。波は太平洋でしたので、多少はありました。それでもざぶんざぶんと聞こえる程の普通の波でした。当時は赤羽根町の海岸にはサーファーはいたと思いますが、そこにはまだいませんでしたね。私もどうゆうわけか、自然に海に泳ぎだしました。その時はまだ離岸流なんて言葉はまだ無かったかも知れません。私も当時はそのような言葉は、一度も聞いた事はありませんでした。海へ泳ぎだしましたが、たぶん立ち泳ぎで泳いだと思います。しかしあまり覚えがなく、そんなに疲れるほど泳いだ覚えが無いのです。沖へ出てなんとなく岸の方をふりむくと、えっと思いました。すでに150メートルほど離れているのです。岸より離れすぎと思い、これはまずいなと思いました。それですぐ泳いで戻ろうとしました。ところが平泳ぎでひとかきしたところ全く前に進まないのです。驚きました。でも慌てはしませんでした。すぐに泳ぐのはやめました。体力の温存を計ることにしました。あまり体力ありませんので当然です。これから1時間でも2時間でも、流されてもいいように泳がない事にしたのです。一瞬ですが、このまま太平洋一人ぼっちになるかと思い恐怖感に襲われました。そのまま何もしないで、漂っていました。しばらくすると伊良湖岬方面(堀切海岸)に流されている事がわかりました。声を出して「おーい、おーい」と海岸にいる二人の子供に一度だけ叫びましたが、助けてくれとはまだ言えませんでしたね。しかし後で聞いたところ「おーい」とゆう声は聞こえたそうです。その後は堀切町の海岸線に沿って流されて行きました。内心は砂浜に物が打ち上げられてるのだから、打ち上げられるよなと心に言い聞かせていました。横に流されてすぐに堀切の海岸がどんどん近ずいてくるのが分かりました。心の中に希望がわいてきました。 ある程度海岸に近ずいてきたところで、ここぞとばかりに泳ぎました。そして、波と一緒に1回転しながら打ち上げられました。離岸流の話が話題になった時は、今でもこの事を思い出します。私が海へ出た場所は、ちょうど離岸流が流れているところで、あれよあれよと、離岸流に乗って沖へ流れ出て行ったと思います。離岸流を知っていればそんなに怖くは無かったかも知れませんが、私にとってその時の太平洋は、なんせ初体験でもあり、一瞬ですが恐怖感をしっかりと味あわせていただくことが出来ました。もう二度と太平洋で泳ぐ事はごめんです。本当に怖かったです。自然を甘く見てはいけません。南の島で海底散歩中に行方不明になる事件がありますが、私もちょっとだけ経験していますので、流された人たちは、きっと何時間にも亘り怖い経験をしただろうなと思いますね。とにかく所詮は遊びです。命がけで遊びをするものではありません。




 このブログを書こうと思っていた時に中日新聞の7月16日(水曜日)の東三河版欄に第四管区海上保安本部(四管)が15日にサーフィンが盛んな田原市赤羽根町の表浜海岸(海水浴は禁止)で、海岸から沖合いに向かって流れる「離岸流」の調査をした事が載っていました。
 新聞によると離岸流の速さは毎秒0・6メートルと記録されたそうです。四管の潜水士の井上晃明さんは「流れは以外に早く、訓練を積んだ自分でも恐怖心を覚えた」と話しています。
 16日も太平洋ロングビーチで調査しています。16日のテレビ(メーテレ)で離岸流の事が放送されました。夕方でしたが、私はしっかりと見ました。その時は秒速1メートルあったそうです。オリンピックの選手でも流れに逆らって泳ぐのはなかなか難しいそうです。と言っていました。離岸流に巻き込まれたら「そのままじっとしていれば自然に向岸流に載れる」と言っていました。全く私と同意見でした。とにかく表浜では海水浴は禁止絶対に泳がない事です。サーファーは足とボードがひもでつながれています。ボードと一緒に泳いでいるようなものです。また、日ごろの鍛錬もあり、おぼれる心配は少ないと思います。水のきれいな渥美半島には、公認の海水浴場がたくさんありますので、そこで泳ぐ事です。
 

 渥美半島の太平洋側で子供が波と遊ぶのは絶対やめましょう。波にさらわれて行方不明になることがあります。子供を遊ばせるなら海水浴場の海岸で遊ばせることです。

 
第4管区海上保安本部の海洋情報部で離岸流の言葉の起源を聞きましたが、何時頃から離岸流とゆう言葉が出来たかは全く分からないとゆうことでした。昭和48年頃にはその言葉はなかったかも知れません。又その様な離岸流があり戻れなくなる現象もはっきりと認識されてはいなかったかも知れません。


 高いところから飛び降りる娯楽施設でバンジージャンプがありますが、離岸流を冒険する。離岸流ブーメランとゆうような名前の娯楽施設を作って料金を取り、離岸流をよく知ってもらうのもいいことかもしれません。パニックで水死する事が無くなるかもしれません。離岸流に乗って沖に出て、ブーメランのように岸に戻ってくる施設です。施設費用も要らず、監視には水上バイクがあればいいかもしれません。渥美半島にそのような体験的娯楽施設があれば離岸流の理解が深まり、離岸流で亡くなる人はいなくなると思います。
 又離岸流を競技種目にする提案はどうでしょうか?。海岸からよーいドンで離岸流に乗り、 沖で向岸流に乗り、海岸に戻ってくる競技です。勿論タイムを競う競技ですから、早く海岸に帰って来た方が優勝者です。しかし、危ないですから、体験者、競技者には、必ずライフジャケットを付けてもらいましょう。

 
 26日の中日新聞に新潟県村上市の87才(1927年生まれ)のライフセーバー本間錦一さんが出ていました。活動を始めて40年目だそうです。肩書きは市水難救助隊長です。インターネットで名前を調べると出ています。食事内容に気をつけ、また、ふだんのトレーニングの量に驚きました。そんな本間さんにも、忘れられないつらい記憶がある。市の監視員になって2年目の76年、小学2年生の女の子が行方不明になった。両親は、浮輪をしているから安心だと思い込んで目を離していた。「浮輪は波で簡単にはずれてしまう。飲酒後に泳いでおぼれた人を除けば、監視時間帯に亡くなってしまった唯一の例です。今も胸に刻んでいる」。それ以降、口うるさいと思われても、浮輪をしていることで安心しないよう子供を連れた親に声を掛けている。と書かれていました。警察庁によると、水難事故の死者・行方不明者は毎年700人から800人いるそうです。うち半数は海で亡くなっているそうです。
 27日(日曜日)の夜のニュースで、熊本の川で浮輪をした女の子が浮輪から外れて流され、両親が助けようとして両親が亡くなったと伝えていました。子供は助かったそうです。本間さんの言うとおりのことが起こりました。このブログを読んでこのことを頭に叩き込んで下さい。浮き輪をした子供を見たら必ず親にこの事を話して下さい。よろしくお願いします。



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14年07月19日 16時41分21秒
Posted by: kawasaki
 今日(7月19日)から夏休みだそうです。今年も子供の水難事故が既にありました。夏休み中に、子供が川で事故に遭わない様にこのブログを書くことにしました。泳ぎが達者な子供のほうが水難事故に遭う確率が高いと思います。私も小学校の一年生ぐらいで既に泳げたと思っています。当時は水泳の先生もいませんでしたが、自然に泳げるようになりました。今でも事務所から直線距離で450メートルの処に、子供の時にはプール(宮川プールと呼ぶそうです)として使われていた防火用水があります。当時はそこが渥美半島の福江町に住んでいる子供たちのプールだったのです。無料で泳げました。グーグルアースでその用水の長さを測りましたところ、長さは25メートルあります。当時としては立派な25メートルプールで泳いでいたんですね。昭和28年頃にはプールは有ったと思っています。昭和30年の紫雲丸の事故が起こる前からプールがあったのは凄い事だったと思います。最初のころはプールの角のへりからへりに向かって、3メートルか、4メートルほどの距離を犬かきで泳いだものです。小学校1年頃だったと思います。私はこの25メートルプールの横断を秘かに実行しようと思っていました。何といっても、学年ではまだ誰もやらなかった行為でしたからね。まずこっそり泳ぐことにしました。勿論、当時は犬かきで泳いでいましたので、犬かきで泳ぎました。25メートル見事に泳ぎ切りました。そしてそれを同級生に言いましたところ、案の定、嘘だといわれました。そこで、同級生の見ている前で、犬かきで泳いで見せました。びっくりしていましたね。それを見た同級生たちは目つきが変わりましたね。その後はきっとお父さんに泳ぎを教えて貰ったと思いますね。でもやはり最初に25メートル泳いだものが勇気と名誉を得るものです。
 


 今の福江町にいたのは小学校4学年の8月までいました。父親の転勤で9月より同じ愛知県の岡崎の近くの額田郡にある額田出張所(登記所)に引っ越ししました。勿論そこには海はありませんでした。しかし立派な川が流れていました。乙川(おとがわ)と言いました。額田出張所から50メートル竹薮を歩けば乙川に出ますから、夏休み中は毎日泳ぎに行ったと思います。鮎もウナギもいました。私も登記所の職員の加藤さんからうなぎの釣り方を教えて頂きました。50センチほどの長さの竹の先に大きなはりに「めめず」をつけてうなぎを釣りました。でも川から持ち出そうとした時に川に落ちてしまいました。残念ですがかなりの大物でした。それ以後はうなぎは釣れませんでした。私の兄がヘッポコ水中銃を作りまして、5匹ぐらい鮎を獲ったのを覚えています。鮎の友釣りという言葉もここで覚えました。てんもくと言うガラス瓶で魚を獲ることもおぼえました。この川は遊ぶにはなかなか面白い川でした。
 5年生の夏だったと思います。その時はもう何度も乙川でおよいだものです。雨の降った次の日だったと思います。兄弟3人で泳ぎに行きました。いつもの竹薮を通ればすぐ川です。雨が降った次の日でしたので、いつもと違い少し水かさが多かったですね。この場所は普段は地元の子供たちがいますが、その日は当然ですが、誰もいませんでした。
 水着のまま自宅から来ましたので、兄が最初に飛び込みました。4メートルの川幅ですが、この場所が多少の深さもあり、いちばん遊ぶにはいいところでした。直角に飛び込み対岸に上がりました。私が「いいか」と言ったら、「いいよ」と言いましたので、私は斜めに対岸に向かって飛び込みました。飛び込んだ瞬間に流れがえらい事がわかりました。勿論、泳いで対岸にたどり着く流れではありません。しまったと思いました。一瞬にして、頭の中を色々な事が駆け巡りました。とくに弟が飛び込んできたら、弟を助けるために自分も流されて死ぬかも知れないと思いました。とにかく弟に飛び込むなと知らせなければなりません。しかし幸運なことに私は、この川底にはどこにどんな形の岩があるか全て知っている事でした。川の真ん中あたりに鬼の角に似た形の岩があり、その岩に抱きつく必要がありました。ほんの2秒か3秒でその岩は現れます。飛び込んで顔を水中に入れたまますぐにその岩を目指して流されました。水中で目を開けたままこの辺だろうと思い流されて行きました。そして真正面にその岩が水中から現れました。さっと抱きつきました。すぐに顔を出して弟に怒鳴りました。「おまえは飛び込むなよ」と叫びました。そう叫んだ後に、これでみんな生きて帰れると思いました。川底はのこぎり状になっていますので、足で岩を挟みながら、飛び込んだ側の岸まで歩きました。岸へ上がると私も兄に「帰るぞ」と怒りながら言いました。兄はまたドボンと飛び込み何事もなかったように戻って来ました。泳ぎが確かに上手でしたね。しかし弟が死ぬ思いをしているのに、本当にあきれてものが言えませんでした。後から弟に「よく飛びこまなかったな」と聞きましたところ、「えらい勢いで流されて行ったので怖かった」と言われました。川は本当に怖いところです。知らない川で泳ぐ時は充分注意してください。命がいくらあっても足りません。


 地元の子供がいないときには絶対泳がないことです。又雨が降った翌日も泳がないことです。川は変化していますからね注意深い行動をしなくてはだめです。親の方も子供が川に行く時は一緒に行く覚悟で行って下さい。私は死ぬ思いをしましたが、両親には話さなかったですね。子供たちはとんでもない危険な場面に出くわしているかもしれず、親はやめさせるぐらいの多くの知識や知恵がないといけないと思います。子供を愛していれば注意深い思いやりが必要だと思います。

 このブログは私の過去の経験から書きました。子供の教科書に載せたいです。




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14年07月15日 15時38分47秒
Posted by: kawasaki
 北海道で4人の女性が泥酔者運転のアメリカ車に跳ね飛ばされて即死(一人重傷)したのを見て、このブログを書くことにしました。このアメリカ車(JEEP)は大きくてガソリンもがばがばくいそうだし、きっと、アホな奴が乗ってるのだろうなと前々から近くに駐車してるのを見るたびにそう思っていましたが、やっぱりアホな奴が乗っていましたか。これは冗談で言っているのではありません。100キロだしていたそうでしたが、たばこを買うのにそんなにスピードが必要だと思いません。泥酔者ならば、なおさらスピードは押さえて乗ると思うのですが、勿論乗ってはいけませんが。運転上手な私でも100キロ出せばかなり緊張しますよ。事故は起きるべきして、起きたのでしょう。しかし、もし、私がそこを一人で歩いていても、後ろから追突されて飛ばされて即死する事故には遭わない自信があります。どうしてか?皆さんは分かりますか?。考えて下さいよ。4人の女性は確実にはねられて飛ばされているんですよ。あのでかいアメリカ車に100キロのスピードではねられれば生きている方がおかしいのです。木や草で見えにくかったかも知れませんが、私なら来る前に、車から発する走る音などで気が付き、勿論、日頃から前や後ろを見ながら気を付けて歩いていますので、まずここなら安全だと思うところへ逃げます。車を見ながら、やり過ごします。だから事故に遭わない自信があるのです。普段から、私は自宅から道路に出たらそこは戦場だと思っているのです。だからあちらを見たり、こちらを見たりして、流れ弾に当たらない様に気をつけます。そうですよ、運転手をしっかりと見るんですよ。運転をしているか?。それとも寝てるか?。携帯をいじっているか?。薬でラりっているか?。病気で車中でぶったおれているか?。隣の女性とイチャイチャして正常な運転をされているかどうか?。(私の弟も小学校勤務の新婚の先生が、その嫁さんとイチャイチャしている車に追突されました)以上色々考えながら前や後ろから来る車に注意しながら歩きます。夜の散歩でも必ず後ろから来る車をやり過ごしてから歩きますよ。道路は戦場ですからね。何時、車が暴走して突っ込んでくるか分かりませんからね、こうして右や左や後方などに常に注意して歩くのが流れ弾で死なない方法なのです。勿論、靴もしっかりと履いています。いざとゆう時にはダッシュして逃げなくてはなりませんからね。サンダルなどを履いている人を見ると、ここに車が突っ込んでくると素早く逃げれるかどうか心配してしまいます。
 ここまで書けば分かりますよね。車で事故に遭わない方法とは。
 そうです私は自動車の運転手を全く信用していないのです。200パーセント信用していません。私でも夜中の12時頃になると眠たくなりますからね。前の車への追突の危険が有ります。そのような時は、すぐにコンビニの駐車場で睡眠をとります。コンビニへ荷物の交換に来たトラックの音で目を覚ましましたこともあります。

 女性たちがどうしてそこを歩いていたのか分かりませんが、遠方に住んでいる方なら自家用車で来なくて、電車かバスで海水浴場へきたのかもしれませんね。歩いていなくて、若し、車で来てその道路に車を置いて中にいても、道路に車を置く事は非常に危険です。きっとこのアホがぺちゃんこになるような大追突事故をお起こしていますよ。テレビなど見てると高速道路では必ず追突事故が起きていますからね、路肩があれば路肩に置くべきです。そして車から離れているべきです。中にいるとぺちゃんこにされますよ。車の前や後ろにいても危険です。高速道路の外にいるべきです。

 私は前々から、警察がもっとアイデアをだして事故を防がなくてはいけないと言っていましたが、180度切り替えるべきです。「運転手を信用するな」キャンペーンを張るべきです。「手を挙げて横断歩道を渡りましょう」ではなくて、車をやり過ごしてから渡りましょうでいいんですよ。小学校の前に信号機があると、車が来るのを待って赤信号にして渡る子供がいますが、車が、まだ来ない遠いところにいる前に渡ればいいんですよ。私はなるべく信号機を使わない様にすべきだと思います。勿論、車がひっきりなしに走る処では話は別ですけどね。


 今日の朝、住民課ヘ行って職員に貴方達も全員事故にて死ぬよと言ってやりました。
 「あなたたちは(上司にいわれたとおりのことをする)素直で優しい人ばかりだから、後ろから来る車に跳ね飛ばされて死にます」とね。「しかし私は死なないよ。貴方達は死ぬけどね。私のブログを読んで死なない方法を読むといいよ」と言ってやりました。それで今日このブログを書きました。このブログを読んだ人は幸せです。生存の極意が書いてありますからね、人生長いですから、しっかりと読んで子供にも旦那にも教え込んで下さい。


 とにかく運転手を信用してはいけません。道路に出たらそこは戦場だと思って下さい。ボケッとしていたら流れ弾に当たります。子供にしっかりと言って下さい。運転手は見ているようで見ていないのです。田原の成章高校を夕方帰ってくる子たちを見ていても誰も後ろを見る子はいませんね。後ろを見て車をやり過ごさないとは本当に怖いです。携帯を見て歩くなどは大バカ者です。戦場では流れ弾が飛んでいるんですよ。
 私も昭和43年頃、田原の町中を当時はダンプが多く通っていましたが、危うくダンプの後輪でひかれるところでした。近ずいてきた後輪を見てすぐ30センチほどの高さで、幅40センチのコンクリートで出来ている、道路の土手に飛び乗ったことがありました。運転手は見ていなかったですね。土手の下は水路になっていましたが、このコンクリートの土手があった田原郵便局の前は信号機が無かったので、必ず日曜日ごとに交通事故がありました。田原で最初に信号機がついたところではなかったかと思います。
 過去にこの様な危ない事がありましたので、私は絶対運転手を信用していません。
 皆様も道路は戦場だと思って注意してください。そうすれば流れ弾の事故に巻き込まれません。


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14年07月13日 09時20分39秒
Posted by: kawasaki
 昨日7月12日の中日新聞の23面のくらし面にQ・Aとして東京都の無職の80代の方が弁護士の方に相談しているのが載っていました。「今野久子弁護士の女性の法律相談」とゆうコーナーの欄です。ではそのまま載せます。
 Q リバースモーゲージ実は売買契約の偽り
 2年前、「A機構」の職員を名乗る人から自宅を担保に年金がもらえると言われ、契約した。「リバースモーゲージ」という方法だそうで、30万円の年金が4年間支払われる予定が、2年分で停止。おかしいと思ったら裁判所から突然、競売開始決定の通知が届いた。登記簿では自宅はA社の名義になり、金融業者の抵当に入っていた。

 弁護士さんの答えも載せます

 A 被害の最小化を優先
 リバースモーゲージというのは、持ち家を担保に国や自治体、銀行などの民間金融機関から年金型の生活資金を借りる制度です。通常、死後に自宅売却などで借金を返すことになるので、預金や年金がすくない高齢者でもお金が借りられ、死ぬまで住める便利なシステムと宣伝されています。
 ところが、契約書をみるとリバースモーゲージとは似て非なる物。契約はあなたが自宅の土地建物をA社に売り、A社が代金を月賦で払う内容で、あなたが「年金」と思ったお金は毎月分割で支払われる売買代金。それをA社が支払えなくなったのです。一番の問題は、特約で死亡するまで居住可能としながら、自宅は売買でA社の所有に移転登記され、A社がそれを担保に融資を受けることをあなたが承諾した内容であること。A社が返済できないと競売に付され住めなくなる危険がある契約です。
 現にA社はすぐに金融業者に抵当に入れました。競売開始決定になったのは、その抵当権が実行されるからです。A社が初めから「年金」を支払えなくなると知りつつ契約をしたなど、事情によっては詐欺の疑いもあります。刑事告訴も考えられますが、優先するのは被害を最小化することです。競売の実行まで最低売却価格の決定、入札、開札、売却許可決定などがあり、最短でやく3〜6カ月くらいで実行されます。国民生活センターか地元の消費生活センター、弁護士会の消費者問題専門の相談または法テラスでの相談を。A社に代金の不払いを理由に売買契約を解除しての交渉、債権者への競売取り下げ交渉、刑事告訴の是非や時期など的確な方法を考えてもらいましょう。

 
 新聞欄は以上です。私たち司法書士の事務所にこのような売買登記の依頼がされた場合、やはり話をよく聞く必要がありますね。根掘り葉掘り聞く必要が有ります。皆さんできますか?私も過去のプログNo.5(2011年8月6日)「不動産詐欺事件 その2 せっかく阻止したのに」を書きましたが、結構私は話がおかしいと思い、かなりくどく聞いています。やはりおかしいと思ったら詳しく聞くべきです。司法書士が最後の砦ですからね、聞かなくてはいけませんね。でも登記所で書類作成の相談員に相談して申請書類を作られると、最後の砦もなくなり、悪党共に喜ばれる事になり、相談員があった方がいいのかどうかは疑問です。結構不動産屋さんは相談しているみたいです。本当は相談員を置くのは怖いですよ。つい先日、ある自治体の農業委員会で働く職員が転用書類を作りたいと相談に来た素人の方に、「面倒くさいので代書さんに行け」と言ったそうで、このように言われたと言って代書に来たお客さんがいました。これでいいのだと思います。この依頼人は私のところに来たわけではありません。あくまで他から聞いた話で私は依頼はされていません。でも実話です。





 

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14年07月02日 15時49分24秒
Posted by: kawasaki
 この話は昭和27、8年頃の渥美半島での出来事です。
 あの忌まわしい、第二次世界大戦が終わりまして、日本に駐留していた米軍も治安のいい日本では、色々なところにジープで観光旅行をしたと思います。当然渥美半島にもアメリカの兵隊さんが来られても、なにもおかしくはありません。たぶん昭和27年か28年頃だと思います。当時は与加楼料理旅館がある周辺は地元では一番の繁華街だったと思います。産めよふやせよの時代で、子供たちも一番多かったころではないでしょうか。俗に言う終戦っ子ですかね。とにかく子供がたくさんいたころです。私が住んでいたところは、当時渥美町役場のそばですので、高台にあたります。役場に入るこの道路で子供たちは遊んでいました。与加楼料理旅館は役場からの坂道を下りた処にありました。今でも当時と全く変わらずにあります。与加楼料理旅館周辺は今でも昭和の時代を残した古びた雰囲気のあるところです。たぶんアメリカ兵は伊良湖岬の恋路が浜まで行って、太平洋を見て来た帰りだと思います。当時は伊良湖岬には気の利いた食堂はなかったかもしれません。それでおいしい食事が出されると聞いた与加楼料理旅館に来たのではないかと思います。私たち子供たちも役場周辺の道路で遊んでいたところ、アメリカ兵が与加楼に来ているよと聞かされて、子供たちはみんなで坂道を下りて見に行きました。そこにはめちゃくちゃに背の高いすらりとした、アメリカ軍の軽い服装をした二人の白人の兵隊さんがいました。とにかく格好がいいんですよ。戦闘中の軍服ではなく、戦場以外で着る普段着用の軍服を着用していました。帽子もかぶっていましたよね。これが正当派のリラックスした服装のアメリカ兵だと思います。ちょうど食事を終えて外に出てきましたが、出口まわりは子供たちがいましたので、しばらく兵隊さんは立ち止まって子供たちを見ていました。すると一人の子供が兵隊さんの前に出てきました。そこで身振り手振りをして、兵隊さんにこうしてほしいといいました。兵隊さんはにこにこしながら、その子供をヒョイと頭の上に持ち上げて高い高いをしだしました。子供も大きな声でわーわー言いながら大喜びで叫びました。最初の子供が下ろされると、子供たちが、僕も僕もと言って兵隊さんにせがみました。兵隊さんはいやな顔もせず、高い高いを繰り返しました。やっぱり最初の子供が一番勇気が要りますよね。はいはい、最初にアメリカの兵隊さんに命令した子供は私です。


 与加楼料理屋さんは今でも料理が食べれます。今の夫婦で3代目になります。お店は国道259号線沿いの保美町にありますが、今でも自宅は福江町のここにあり、ここに住んでいます。フェイスブックで調べたところ創業が大正11年11月11日だそうです。


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