信じる者は救われる、という。

鰯の頭も信心から、ともいう。

物事を信じる純粋さは、人生を送るにあたってこの上ない強さをもたらしてくれることがある。

信仰の持つ有用性を否定するつもりは毛頭ない。



しかし、特に新興宗教を巡る社会問題は、度々マスコミを賑わせる。

オウム真理教然り、統一教会然り。

そこにあるのは信者を食い物にして私腹を肥やす主宰者の醜い姿である。

神にすがるよりほかない信者の弱みにかこつける構図は、報道においても散々暴露されているところ。

では、主宰者側のみに問題があるのかと言えば、そう単純な次元でもない。

熱心な信者は主宰者の求めに応じて全てを擲ち、「功徳」を積もうとする。

そのこと自体をとやかく言う立場にはない。

自身が救われるのだと心から願うのであれば、彼の視野からすれば正しい行動と言えるからだ。

私たちから見れば奇異に映る行動であったとしても、別の立場では正しいと評価される行動なのだろう。

どこが問題か。

盲目的に教義に傾倒するあまり、自己の社会に対する責任をも放棄する点に尽きる。

教団施設内に入れば、そこはいわば治外法権。

外的社会とは隔絶され、社会との関わりを断つことができる。

その中で存分に教義を追求できるのであるから、それはそれで幸せと言えるのかもしれない。



だが、それでいいのだろうか。

教義に、主宰者に帰依することが人生の全てとなってしまい、他力本願となりはしないか。

目標に向けて努力し、成長する可能性を自身の手で摘み取っていはしまいか。

人間は、他者から教えられることではなく、自ら気付くことで真の成長に繋がるものと思っている。

「与えられた」ものを吸収するだけでは、何ら義務教育と変わるところはない。

そうした可能性を自ら捨てる結果となってしまっていることに、彼らは気付かない。

もちろん、そのようにリードされてしまっているわけであるが。

「宗教は儲かる」と公言して憚らない者もいる。

宗教法人に対する税制は見直されて然るべきであると考える。

優遇策が見直されない限り、宗教法人格を隠れ蓑にした利殖行為と信者に対する搾取の構図はいつまでもなくならないだろう。



私自身は、無宗教である。

むしろ、古来日本からある多神教、自然界の「八百万の神」という感覚がしっくりと来る。

弱り目に付け込まれたり、流されることなく自分というものをしっかり持っていさえすれば、悪徳宗教の餌食となることはない。

信仰で全てが救われるか。

自身を取り巻く何かが劇的に変わるか。

私自身が思うに、そのいずれもない。

自身が哲学を持ち、「こうありたい」と心に抱いて行動することのみが良い結果を招く唯一の方法であると思う。

もっともらしい弁舌を振るう宗教者は、自らを糊塗するために全精力を注いでいるのだ。

人を見る力を養う教育も、また必要なことなのだろう。







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