今年が明ければ、間もなく東日本大震災から二年が経過する。

罹災後、各方面から数多くのボランティアが現地に赴き、不断の復旧に携わったことには心から敬意を表したい。

被災地の復興には5年、10年程度ではなく数十年のスパンで考えていかなければならないという。

道のりは長く、まだまだ端緒であると言わなければならない。

総選挙後に成立する内閣に対しては、無駄な財政支出を切り詰めつつ復興関連の予算を手厚く確保し、一日も早い復興が実現するよう注力してもらいたいと願う。



震災後、割に早い時期に復興に向けた連帯感を表す言葉が持て囃されるようになった。

「絆」、である。

2011年の漢字にも選ばれたように、この言葉を聞かない日はないほどだった。

(絆という漢字の成り立ちについてはこちらのブログが参考になります)

しかし、私はこの言葉には違和感を感じている。

例えば、一回や二回ボランティア活動をしただけで、「絆を実践しました」というしたり顔をされてはたまらない。

言葉だけが独り歩きし、本来持っていた意味からは遠く、薄っぺらな言葉として跋扈しているような気がしてならないのだ。

誰かが一方的に掲げるスローガンであってはならず、提供者と受け手との双方が実感として持てるものでなければならないと感じている。

事実、ある被災地で寄せられた被災者の声の中には、被災地への関心の低下を嘆くものがあったという。



この言葉が当てはまる場面としては、当事者間に核、芯となり得る関係が存在していなければならないと思う。

すなわち、夫婦や親子の間における愛情。

気心知れた友人同士の間に築かれた友情。

そうした関係性がない、単なる一ボランティアと一被災者との間に「絆」などという概念は成立し得ないと考える。

先ほど挙げた「したり顔」の例など、言葉に名を借りた偽善でしかない。

江戸時代の共同体である農村のように、困った時はその中で融通し合うような親密なコミュニティであれば、理解できる。



とはいえ、この言葉の持つ響きは好きだ。

信頼関係を表す言の葉として、これ以上の適切なものはないと思う。

血の繋がっていない義理の親子や他人同士でも、「絆」は作り、深めることができる。

人間と人間との至高の繋がり。

だからこそ、安っぽい言葉として世の中に蔓延ってほしくない。

元は他人で反目し合ったある人と、絆を実感する関係を結ぶことができた人間として余計に思うのだ。



※記事中の表現は、被災地の復興のため真摯に取り組んでおられる方を揶揄するものではありません。







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